2024/08/13

K・ローレンツ『ハイイロガンの動物行動学』大川けい子訳、平凡社1996

 K・ローレンツ『ハイイロガンの動物行動学』大川けい子訳、平凡社1996

世界を客観化し、そこから矛盾のない像を描こうとする人類共同のすばらしい試みの歴史はわずか百年にも満たない。動植物があふれる環境世界についての、感情に従った反射によらないわれわれの知覚はきわめて古く、太古からである。世界についての純粋に原初的な情緒的理解がすぐれているところは、より高度なより複雑な現象をより小さい、より根本にある、すでに理解されている要素に遡ることによって、世界を見抜くようにすること、つまり客観的な方法で誰でも皆にわかりやすくし、しかも矛盾がでないようにすることにある。自然科学はこの意味で相互理解を基盤にしている。

矛盾のない比較的単純な世界像は、周囲に現実についての際限のない支配力を人類に授けた一方で、人間と生物界全体に関する多くの疑問をなおざりにしている。物理学は誰もが理解できる普遍的な法則性を一般化し、この法則性を抽象するための手段としてしか役立たないものとして、構造をなおざりにする。

世界を説明するには、普遍的な自然法則を理解するだけでなく、その法則が作用する物質の特別な構造を知っていることが前提になる。ニュートンの法則は、たとえば、振り子の構造のなかでは振り子の法則として作用し、太陽系の天体の回転におけるものとはまったく異なるのである。複雑なシステムは単純なシステムと「いささかも異なるわけではない」という還元の仮定は、構造をないがしろにしてはならないがゆえに間違いである。次第に単純なものに、次第に小さなものに無限に遡ることができるというのは、広く流布した誤解である。言い換えると、科学は還元からのみ成り立っていて、構造の記述はなくてもよいと信じるのは間違いなのである。

自然科学は決して存在論的な還元からのみ成り立っているわけではない。また、たとえ自分の感情や情緒に目をつぶって、客観的であると信じていたとしても、多くの人が言うように自然科学が人間の感情を締め出して営まれることもほとんどない。客観化はどこでもつねに、自分の主観的な感情を十分に考慮に入れて、認識の全体像を構成することによって成り立つ。私が講義で使い古した客観化の例を次のようなものである。一人の子供が庭からくる。私が手で触れたその子の頬は熱があるように熱い。私はしかし、冷たい水仕事で自分の手が非常に冷えているため温かさを強く感じるのだということを知っている。だから、私は一瞬たりともその子が病気だとは思わない。私の主観的な知覚は私が近くの生理を知っているがゆえに客観化されたのだ。

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